小学生の頃

「伊勢すずめ」の回想記 〜 その1・小学生の頃 〜

 

昔の明倫小学校裏の田んぼと外宮の森 少年の頃、歩いて通っていた伊勢市の明倫小学校は、昔は市役所(現在地)の裏にあったのが火事で焼けたので、今の場所(伊勢市岡本1丁目)に越して来たのだという事を、祖父や母親からよく聞かされた。そして、学校の帰り道や、休みの日の仲間たちとの遊び場巡りなどで、他校の学童らのグループと鉢合わせになると、正にオス猫どうしの縄張り争いしかり、即にらみ合い、けなし合いになり、よくかまわれた。そして果てには石の投げ合いにまで及んだことも幾度となくあった。その時・・・、彼らに罵られたフレーズは、未だに忘れようが無い。

「明倫がっこぉ、ボロ学校〜、
 雨が降ると漏るしぃ、風が吹くと飛んでくしぃ、
 オマケに火事で焼けたぁ〜〜…。」
 

 みんなその事はよく知っていたが、とにかく悔しいので、いろいろわめきながら怒鳴り合いを演じ、めいめいがボロクソに言い返すのだけれど、敵らのような格好の「かまい文句」が無くて、いつも最後は熾烈な戦争であった・・・。その頃の明倫小学校の周辺は、御木本道路も中山寺(ちゅうざんじ)の辺りまでしか通じていなくて、未舗装の砂利道だった。

 

 人家は、校門の前や横に何軒かあったが、そのすぐ前の勢田川に流下する支流の小川が学校のグランドを取り巻いていて、裏の御木本道路の界隈は、勢田川から外宮の森までずっと田んぼが広々と広がっていた。付近の大きな屋敷や建物と言えば、宮崎文庫跡と霊祭講社がともに隣接していただけだった。

 

 とにかく、我が小学校は、そんなのどかな田舎じみた学校裏の自然環境と、表玄関の岡本町の町街地との境界に位置していたがゆえ、遊ぶのには何の苦労もしなかった。低学年の頃から、暇があると小川や田んぼに入って泥んこになりながら、フナやメダカ、ザリガニやドジョウやタニシ、そしてギンヤンマを採ったものだ。夏の夕暮れなどは、グランドの上空に舞うギンヤンマの群れを狙って、ブリでのひっかけ合い合戦に興じた。

 

 特に記憶に残っているのは、台風一過の翌日には、間の時間になると、男の子らは先陣を争って水浸しで池と化したグランドに入り、膝までつかってウナギの採り合い、鯉のつかみ合いを演じた事だ。とにかく、台風一過のグランドは、雪の日の雪合戦に似た、絶好の遊び場となったのだ。当時は、小学校の先生方も実におおらかであった。

 

 小学校5年生の時に、月や星座、岩石・鉱物などを学んだ。当時、明倫小学校には、理科だけを専門に教える「孫福 正」と言う博物学者の大先生がみえた。先生は、ご自身で採集してきた実物標本を回覧してくれたり、野外調査の体験談など、盛りだくさんの興味深い話を、たくみな話術でしゃべり、脱線しながらも理科の面白さを熱心に講義してくれた。学童たち相手に、とにかく楽しい授業をしてくれたものだ。

 

 そして、ある日の放課後のことである…。御木本道路を挟んだ学校の裏地が埋め立てられていたので、仲間と遊びに行った。砂岩や礫岩などの堆積岩が土砂に混じっていて、手にしたら、木の葉の跡らしい印象が見えた。化石かも知れない。即、孫福大先生のもとへ、その石を持って走る。暫くして「化石」らしいとの事。何処で見つけたのかと尋ねられる。学校の裏の埋立地で拾ったと言うと、先生は眼鏡をあげて、その石をルーペで詳しく観察された。その後、学校裏の現場に何回か行ったが、たくさん出てくるわ、出てくるわ…、その年の5年生を中心に学童総出で放課後の化石掘りが始まった。

 

 後日、大先生は、埋め立てに使われた土砂の出所を、伊勢市内の徳川山(秋葉山)だと突き止められ、何ヶ月もかかって学童総出で採集した植物化石を、ひとつひとつ授業の合間にこまめにスケッチされた。この事は、化石発見のニュースとして、当時、何度も複数のマスコミに取り上げられた。その後、この植物化石は、ひとつひとつ同定が成され、

「伊勢徳川山の化石」(孫福 正 著)

として書物にまとめられ、伊勢ライオンズ・クラブの援助で出版されるに至った。今となっては、当時戴いたこの化石の本は、実に貴重な文献である。もともと好奇心の強い子供であったが、とかく、この出来事があって、「伊勢すずめ」がその後、理科への造詣を深めて行ったように思われる。

孫福 正著「伊勢徳川山の化石」昔の明倫小学校の全景(昭和30年代前半)