高校時代(前編)

「伊勢すずめ」の回想記 〜 その3・高校時代(前編)〜

 

 伊勢すずめが進学した高校は、母親の奨めもあって、伊勢市内の三重県立宇治山田高校だった。

 

 当時の「山高」は、今の市立図書館のある辺りの一角で、八日市場町の旧伊勢電鉄軌道跡の市道沿いにあり、母親の母校でもある「宇治山田高等女学校」を前身とした、正に漱石の小説に出てくるような旧校舎と、少し先の白石山丘陵の高台に、やっと出来上がったばかりの三階建ての新校舎が一棟、まばらな新開住宅地を見下ろすかのようにポツンと建っているだけであった。

 

八日市場町にあった山高の旧校舎の全景 その当時、1、2年生は旧校舎、3年生だけが新校舎で授業を受けた。男女の比率は、女学校の流れを汲むことと、中学校のトップ・クラスの男子がごそっと新設間もない伊勢高校に進学していたので、女生徒対男生徒がほぼ2対1であった。旧校舎は、立派な門柱の校門と玄関を持つものの、板張りで油引きの薄暗い中央廊下と、女子トイレの多さが目についた。窮屈な講堂、雨天体操場、複数の和室をはじめ、訳の分からない小部屋が幾つかあり、中庭もあった。古びた教室の窓には、開閉用の紐のついた分銅がぶら下がっていたのを覚えている。学級数も一学年で13クラスと、当時は県下でも屈指のマンモス高校で、何をするにも狭くて不便であったが、とにかくこの旧校舎には、先輩ずらした番長格の厳つい3年生の連中がいなかったせいもあり、入学後は慣れるに従って、実に自由でのどかな学園に思われた。

 

 当時の山高は、先生の数も大規模で、優に2クラス分はいた。担任や教科担任以外はまるで解らなかったが、聞くところによると、元オリンピック選手(陸上競技)の体育の女教師もいたし、クラブ指導の赤鬼や青鬼もいたし、ゲタを履かせてくれる仏の何某サマもいた。多分、お局様や大明神、復員兵の進軍ラッパもいたかも知れない。老若入り混じったこの個性派教師の大所帯を束ねていた、当時の教頭先生や校長先生は、今にしてみれば大変だった事と思う。昨今は、どこの高校でも名物教師が見られなくなったようだ。

 

 山高は女生徒が多かったせいか、何人かのガリ勉もどきはいたが、勉強オンリーの生徒は殆どいなかった。その当時、国立大学への進学と言えば、三重大学ぐらいであったが、山高から合格する女生徒は片手にも満たなかった。男生徒は有名私立大学が関の山で、受験浪人も少なくなかったし、成績がよいのに就職を選ぶ者もかなりいた。この高校は受験地獄の時代をよそに、人畜無害なぬるま湯ではあったが、伝統を重んじる伸びやかで生き生きとした、感性あふれるとても感じのよい学園天国であった。とにかく、やたらと文化クラブや同好会が多くて、今にして思えば、その殆どを女生徒が仕切っていたようだ。

 

山田女学校時代の校舎(山高旧校舎の前身〜グランドでの全校集会の風景) 入学当時の我輩の成績は、中の上クラスだったと思う。当時の山高には剣道部がなかったので、一年生の時は、夕方から市民道場に通って剣道を続けた。クラスでは、何故か代議員をやらされたが、生徒会活動には全く関心が無かったので、最初の内は議会にも顔を出していたが、2〜3ヶ月も経つと、もう一人の女子議員に任せて、よくサボった。ぶらぶらしていたら、応援団長に目をつけられ応援団に引っ張りこまれたが、ひと月も持たなかった。担任が高名な音楽の男性教師で、コーラス部の顧問でもあったので、当初はとりあえず担任の率いるコーラス部に入部してみたものの、組織的ハーモニーの美しさを求めて練習する部活が性格に合わず、以後音楽の好成績を保持しながらも、一ヶ月少々で脱落した。自主退部である。その後は、地学部や地歴部、写真部、新聞部、JRC、レコード・コンサート部などに誘われたが、どれも性にあわないのか冷やかしに終始し、最後まで幽霊部員として名前が残っていたのは、地学部だけである。一体、一年生の後半は何をしていたのだろうか、よく思い出せない。多分、隣のクラスの女生徒らをからかって、面白おかしく過ごしていたのであろう。勉強もそこそこにはやったつもりだ。

 

 二年生になって、自分自身がこれではいけないと思っていたのと、一緒に進学した道場仲間との約束もあり、5月になって、一年生時の同級生らにも名前を借りて、総数20数名の名簿を作り、剣道部の創部を申し出た。ラッキーだったのは、当時の教頭先生が戦前の剣道家で高段者であったことだ。2週間後にはすんなり生徒会で承認され、すぐに部活ができるようになった。但し、稽古の出来る場所がなかった。最初は中庭などを考えていたが、人の行き来の邪魔になって無理だったし、程よい床板の雨天体操場は、バスケット部と体操部が反面ずつ使っていた。どの教室の床も油引きだった上、ささくれていたし、止む無く油くさい中央廊下でのスタートとなった。昭和40年の晩春であった。  ( 未完 )