中学生の頃

「伊勢すずめ」の回想記 〜 その2・中学生の頃 〜

 

当時の倉田山中学校の全景 「伊勢すずめ」が通った中学校は、御幸道路を挟んで神宮徴古館に隣接する倉田山を切り開いた山林の真っ只中にあった。生徒数最大規模を誇った「倉田山中学校」である。当時の校舎は、旧・神宮皇學館(大学)の跡地と建物を借用していたもので、戦争で焼け残った八角堂(講堂)やら、御師(おし)の屋敷に似た玄関口を持つ丘の上の古風な学舎と、地均しをして造られたグランドに面した新築の近代的な造りの校舎が、連絡橋みたいな渡り廊下で繋ぎ合わされていた。山の辺の大寺院の回廊さながらのアップ・ダウンや、段差のあるザラ板の廊下、不規則な間取りの教室など、言わばゴチャ混ぜの迷宮のような学校であった。 新入生の間もない頃などは、校舎内の配置が覚えきれずに、職員室や購買、小使い室などの場所すらよく解らなくて、戸惑い迷ったものだ。それゆえ、間の時間には級友らと恐る恐る探検をせざるを得なかった。

 

 部活は、小学校5年生の冬から始めた少年剣道を継続する形となったが、伊勢市民道場の一学年上の強い先輩たちがごそっといたので、ウムを言わさずに「剣道部」に引っ張り込まれた。一緒に進学した道場仲間も、みんな1級を持っていた為、即、剣道部に勧誘されていた。中学校では軟式野球をやりたかったのだけど、高段者の顧問の先生にも説得され、諦めて部員となった。その後、勉強そっちのけで、剣道にのめりこんで行くことになるが、少年剣道では6年生の夏に、伊勢市民剣道大会の個人戦で優勝し、師範や先輩らから、「お前は、スジがいい」と、目をつけられていた事も少なからず影響している。勉強は、自分ではよく解らないが、1年生の時はあまりしないのに、成績は上位の連中とトップ争いのメンバーに加わっていた。学校での放課後の部活後も、自宅近くの市民道場の一般稽古によく通い、ほぼ皆出席だったし、2年生、3年生へと剣道が上達するに連れて、理科と体育と音楽以外の成績は徐々に下がっていった。

 

 剣道部では、一年時から、他を差しおいて只独り、五人1チームの団体戦のレギュラーに抜擢され、そのチームは間もなく県大会で団体優勝となった。個人戦では、県大会の試合(三重県少年剣道大会〜於、津市結城神社)で、調子よく波に乗ったのか、一年坊主がとにかく優勝してしまった。負けず嫌いの性格が、先々まで剣道を熱中させたようだ。

 

 剣道以外では、当時、中学生の間でも石(鉱物)集めがはやり、これにも熱中した。その頃は、京都の日本鉱物趣味の会(後の日本地学研究会の母体)が活動を活発化させながら、全国の鉱産地情報を、会誌や会員らを介して盛んに流していたことや、戦争を挟んで開発され各地にたくさんあった鉱山や鉱山跡からの標本などが、次々と紹介されていた事情がある。生徒たちにも何人かのマニアがいて、休み毎に鉱物採集に近郊の産地や県内を歩きまわっていた。我輩は、当時はやっていた切手集めや古銭の蒐集を放棄し、自転車で伊勢市内・外の目ぼしい場所を廻ったり、父親に頼んで近鉄沿線の山野(さんや)に連れて行ってもらったり、鉱山に手紙を書いて標本を取り寄せたりし、鉱物中心の石集めに没頭した。母親譲りの負けず嫌いの性格と、祖父から受け継いだ収集癖が災いしたようである。

 

 今は、行くのが困難になった五十鈴公園近くの西行谷や水晶谷(施餓鬼谷)も、当時は針水晶(実態は方解石や霰石)の多産する遊び場であったし、山高の新校舎が建つ前の白石山の切通しなど、いくらでも良質の褐鉄鉱が採れた。それに、伊勢市内の岩山の造成地などを廻れば、キラキラ光るお宝のような黄鉄鉱がよく採れた。鉱物マニアとなってからは、不思議と化石に対する興味が失せていった。

 

 他では、音楽の授業が楽しくて仕方がなかった。どこか只者ではない風変わりな中学生だったようだ。二年生の夏前、初めてメロディーを書いた。何のきっかけもなく、ふと頭に浮かんだ簡単な単調のメロディーだった。後に「初想の曲」と名づけたが、メロディー譜だけで歌詞はない。当時は木琴かハーモニカしか買って貰えなかったが、幼い頃から、父親が蓄音機で流行歌などのレコードをかけているのを、しょっちゅう耳にしていた。この初作のメロディー譜は、その当時、音楽の先生(女教諭)にそっと見て頂いたが、ラストを半音で少しだけひねってみて下さったのを覚えている。現在、日本作曲家協会会員となった「沢野夏穂」(ペンネーム)の音楽活動の原点だったと思うので、最後に付記しておいた。