高校時代(後編)

「伊勢すずめ」の回想記 〜 その4・高校時代(後編)〜

 

新築間もない山高の新校舎(昭和40年頃) 仲間とともに、山高に剣道部を創って間もないその年の6月、インター・ハイ県予選大会の個人戦に出場し、いきなり準優勝の好成績を上げ、夏には佐賀市での全国大会に出場した。確か我輩は、2回戦が初試合であったと思うが、地元佐賀北高校の選手と当たり、善戦及ばず負けてしまった。それでも、学校内では夏以降の部活に何かと有利に作用したようだ。

 

 我輩たちの時代は、戦後の竹刀競技を経て武道復活の機運が高まり、剣道が正課として学校教育の中に徐々に浸透し始めて来た頃である。創部当時の山高剣道部のメンバーは、初心者も含めてみんなよく頑張ったものだ。手足にはマメが絶えず、やたらと足の裏が油で汚れたが、幸い防具は体育科から正課用の余剰品をたくさん借用できたので、不自由はしなかった。しかし安物ゆえ修理に追われたのを覚えている。その後、後輩らの勧誘にも当たったが、1学年下の人たちはごく僅かであり、その後の部活を支えてくれたのは、2学年下の21期生のメンバーであった。

 

 2年生の夏が過ぎると、修学旅行を控えてか、校内でも男女のカップルが目立つようになった。我輩は、1年生の時から隣のクラスに好きな娘がいたが、勝気で口下手な性格が災いしてか、彼女の事は、ドキドキしながらも蚊帳の外から眺めているだけであった。とにかく我輩の思春期は、剣道以外は何事もうまく行かなかった。「天は二物を与えず」とは、よく言ったものだ。それゆえ、勉強そっちのけで部活と道場稽古にのめりこんで行き、やればやる程上達する剣道の楽しさと、試合の勝負強さを独り堪能していたと思う。自分では硬派を気取っていたが、周囲の目からは変わり者の優男に見えていたようだ。

 

 学業成績は、当然ながら下降の一方であり、低迷していたものの、やがて最終学年へと無事進級が出来、高台の新校舎に移った。自転車での通学が大変で、毎日朝飯抜きの遅刻寸前に、急坂を駈け上るのがシンドかった。放課後の部活は、野球部とサッカー部以外は、みんな下の旧校舎に通った。2年生の秋頃から、部員の少ないバスケット部や体操部の譲歩もあって、時間制で雨天体操場の反面を、練習場として借りられるようになった。いつの頃からか、マネージャーを希望する女生徒や女子部員もちらほら居ついたが、袴姿はよく似合うものの、最初はまあ竹刀ダンスと言うほかなかった。

 

 我輩は、とにかく試合巧者であったせいか、三年生になっても負けた事がなかった。初夏のインター・ハイ県予選では個人戦で難なく優勝して、2年連続全国大会(盛岡大会)に出場できたし、団体戦チームのメンバー達もいつの間にか上達し、一回戦ボーイからは既に脱却していた。この年の夏を境に、周りの同級生らは皆部活を引退し、それぞれの進路に備え、ある者は受験勉強をし始め、ある者は資格試験や就職試験に取り組み、又、女生徒たちは習い事や、未来の配偶者の見極め術など結婚も視野に、あれやこれやとヤング・レディーへの女仕度を始めていたようだ。特に誕生日の早い同級生らは、順次、車の運転免許を取りに自動車学校に通い出してさえいた。

 

 我輩は、就職組だったせいか、成るようにしかならないとタカをくくっていたように思う。剣道部のキャプテンは禅譲したものの、部活から引退はせず、後輩たちからは煙たがられながらも、夏休みに学校での二週間に亘る合宿を敢行した。その甲斐あってか、卒業後に、2学年下のチームが県大会3位入賞の念願を果たしてくれた。誠にうれしいニュースであった。

 

 三年生のクラスは、男生徒15名、女生徒29名の変則的な就職組であった。教室も3階であり、男子の半分以上が落ちこぼれと虞犯生であり、厄介者の問題児らをそこに集中的に封じ込めたような"混クラ"であった。このクラスの男生徒らは、実に個性的で身勝手ではあったが、良きにつけ悪しきにつけ、それぞれが "独り我が道を行く"タイプであった。授業はよくサボったし、時には集団でボイコットもし、授業中の早弁、居眠り、雑誌や漫画の回覧、無断遅刻、無断早退、中抜けなど、学校生活の常套手段であった。教科担当の先生らも一目置くとか見放すと言うよりは、むしろ本気で相手にせずに合わせてくれ、特段の事が無い限りは、御難やトラブルを避けるように、穏便な授業に終始してくれたものだ。今思えば、杓子定規で我輩らのような生徒を画一視せずに、それなりに、山高生として見守って下さったのかなとも思えてならない。

 

 話しは逆戻りするが、三年生の一学期が始まって間もない春半ばに、我がクラスに背の高いトッポイ男子生徒が一人転校してきた。垢抜けをしたなかなかの好青年であった。聞くところによると、成績も良く、平塚からの転住のようだ。 我輩には、三年生になっての転校生ゆえ、訳ありなのはすぐ解ったが、彼には一度も尋ねたことが無い。転校生の彼にとっては、山高では物足りなかったかも知れないが、このクラスの男子生徒らの雰囲気は、人の事にはまるで無関心であり、ましてや人の過去の事などどうでもよかったがゆえ、詮索する者など殆ど居ず、すぐに馴染んだみたいだ。世間慣れをした都会風の美男子転校生ゆえ、興味を示す女生徒もかなりいたようだが、彼自体もよく心得てか次第にワル仲間の方に接近して行った。我輩はどちらかと言うと、不器用ながら両刀を使い分けていた。

 

 そんな彼とは、日増しに馴染みが深まるに従って話す機会も増え、奇しくも水石に興味がある事が分かった。放課後の行動は別として、趣味の面ではよく話が合った。日曜ごとに伊勢の近郊の山野や三重県下の鉱産地などへ、一緒に何度も採集に行ったものだ。以後、彼とは長い付き合いが続き、還暦を越えた今日に至っているが、今、彼は、幾つかの特許を持ち、自力で立ち上げたベンチャー企業を複数抱える、凄腕の経営者である。

 

 高校時代に、多大な影響を受けた同級生と同窓生が、さらに一人ずついる。その一人は、2年生〜3年生と同級だった、松阪市から通っていたエレキ・ギターの名手だ。彼は放課後になると、遠方から通っていた事もあって、サッと帰ってしまい、家では好きなギターの練習やバンド活動に明け暮れていたようだが、とにかく、プロ並みのすごい腕前をもっていた。 我輩にはどういう訳か、気性の違いを超えて温かく接してくれた。招かれて彼の家に一泊させてもらった事もあったし、放課後学校で、「太陽がいっぱい」のアルペジオを教えて頂いたこともあった。彼とは、20 年程前に再会してからずっと交流が続いている。ご厚誼に、合掌せずにはいられない。

 

 もう一人は、今は伊勢を代表する大会社の社長さんである。会社のトップとしての経営手腕のみならず、財界・経済界でも活躍し、野球のリトル・リーグの監督も行なっている多彩な人物である。伊勢市きっての要人となっており、温厚で実直な実に感じの良い紳士である。そう、彼こそが剣道部創部以来、卒業まで剣道に貴重な時間をさいて支えてくれた、又とない友人である。ご尊父や叔父上が、戦前の超エリート育成学校であった武道専門学校を出ていた事もあって、彼の剣道への気合の入れようは、ハンパではなかった。彼とはやんちゃ坊主の頃の小学校の同級生でもあり、中学校では、クラブは違ったが意識下にはずっといてくれた。今もって青春時代を振り返るとき、感謝の念を禁じ得ない。


山高・旧校舎の「雨天体操場」(昭和30年頃の写真) さて、三年生も最後となると、進路の決まった者らは、みんなそれぞれの青春をエンジョイしながら、卒業に向けてのメタモルフォーゼにかかっていた。男生徒の2倍も居た女所帯の我がクラスのお嬢様らは、急に大人びて、色気づいてもいたようだ。しかし、我輩は、無事卒業できるかどうか、成績の下っ端の者ら数名とそんな事を共に悩んでいた。進路も、散々迷った挙句、最後の最後にやっと県内の民間会社に就職が決まった。高校生活で、何かいい事は無かったかなと思い、ふと母校の山高を回想する時、思う存分好きな事させて頂き、よく遊ばせてくれた末、みんなと一緒に卒業をさせてくれた、真にありがたい高校であったなと思う次第である。  ( 完 )