「エコ」のお話し
「エコ」と言う言葉が最近氾濫している。「エコマーク」に始まり、「エコ商品」、「エコ・カー」等々。そして庶民は、この意味を「地球にやさしい」=「環境を汚さない(もの)」と解釈しつつある。環境のクリーン化を社会的な問題として考える上では、本来の意味など知らなくてもよいが、基本的な「生態系(地球生態系)」=「エコシステム」の考え方が定着するには、まだまだ先のことであろう。
人類は、群れを成し知的進化をとげた霊長類であり、ホモ・サピエンスの知能行動が文明を生み、社会を構築し、有史を経る中で、いろんなレベルでの群れ同士の争いがあり、紛争や戦争等の勝者が、より高度な国際国家群を形成し、科学技術の進歩と相まって産業革命をやり遂げ、いわゆる社会進化へと発展させてきた。たとえ、侵略や殺戮、破壊、略奪、虐殺、殲滅の繰り返しが過去にあったにせよ、これが人類の歴史であり、地球の地表の領土や領海、資源の奪い合い合戦のなれの果てである。そして、この事は、経済力の勝る先進国、ごく限られた大国の政治力や軍事力によって、体裁よく現在も進行している。
その間、地球全体の人口が一気に増加した。現在も一日に約20万人ずつ増えていると言う。人が増えれば食べ物の採り尽くしも起こり、当然食料不足が生じるから、生産力のアップが必要不可欠となる。それには、国家レベルでのあらゆる資源の確保、地表の加工、エネルギーの大量消費となり、地球の表面積が一定であり、地球のあらゆる資源が有限である事や、自然界における生き物達の絶妙なまでのバランス、ましてや、この惑星の自浄化能力の事や、地表の保温作用が自給自足の時代まではうまく作動していた、などという事はお構いなしであった。そのつけが自然環境の破壊であり、公害や大気汚染、水域汚染、森林破壊、公害病、産業廃棄物の不法投棄であり、これらが相まって生活環境の悪化に至ったのは必然の事、正に「因果応報」と言う事に尽きる。これは、不可逆変化である。
それを、今さら人類の生活圏中心の社会的都合により、「エコ化」と称し、環境のクリーン化を政治が主導し、民意を促したところで、どうにかなるものではない。政府にしろ地方公共団体にしろ、自然界の現象に精通し、地球科学を学んだ者であれば、解りきった事である。学識者達がいくら叫んでも、自由経済の資本主義が地球の地表を支 配し、横行する限り、また、地表の人口の大半の人間が、外部環境においても、心の中においても、より自由な生活を重んじ富を求める限り、地表の環境は可逆変化する訳が無く、よくて今の現状が未来へと続くだけである。
本当に地球の自然環境をクリーンにするには、人類の文明が有史以来成して来た地表への作用による、「生活圏至便化」の代償を全て清算し、地球の自浄能力の及ぶ範囲での「自給自足による生活社会構築」以外には無い。現在の状態に至ったこの不可逆変化を逆に辿れば、生活環境の悪化→生産力の減少→加工した全地表を、増産に要したエネルギー相応分の人力による原地形への復元→地球の自浄能力と平衡した自給自足社会への人口の削減(日本列島なら、せいぜい3〜4千万人を養うのが限度)、となる。
いくら「エコ」を叫んでも、「エコ商品」を流通させても、また、増えた人口を将来「宇宙コロニー」に移住させても、地球の温暖化は止まず、一旦狂った気象現象は元には戻らず、身近なゴミの分別さえも無駄なあがきであり、地球環境の復元が根本的に無理なのは一目瞭然である。
それでも、今日を「食って」、明日に「生き延びる為」には、近代国家の人々は「エコ化社会」に向かわねばならず、この現象は、人類進化を経ての社会進化ゆえの宿命なのである。国際社会の連携がうまく整備され、いくら経済効率がアップしても、地球が私達を養える最大人口は、今の約1.8倍程度(約135億人)であり、単純計算をすれば、およそ82.2年後の西暦2091年少々となる。これは日本人の平均寿命程度であり、リミットは、今誕生した子供らの孫の世代までと言える。
それまで私は生きていないから、「我輩は、余生を好きに生きるだけさ・・・」なのである。
(2009.8.27 記す)
耐震化・地震防災のお話し
最近、地震がよく揺る感じがするが、日本列島は4つのプレートがぶつかりあう境界に位置する、地球上で最も地質現象の活発な、環太平洋変動帯の弧状列島である。それ故、北から南まで何処にいても地震に遭遇し、極小さい地震であれば、日本の近海域も含めてみると一日に数箇所でその発生をみている。そして、変動帯のもう一つの特徴である、地球上の活火山の約1割が日本列島に集中している。現在では、「休火山」などと言う火山は無くなり、富士山と言えども、いつ再噴火するかも知れない「休止期にある活火山」の一つである。間もなく発生するとみられる、「平成東海地震」と連動して大噴火する確率は、非常に高い。
そもそも地震は「忘れた頃に大きなヤツ」が来て、これは有史以来繰り返して生じ、いくつかの都市を破壊してきた。近年では「阪神・淡路大震災」が記憶に新しい。このような巨大地震は、学問の進展と観測技術の飛躍的な進歩によって、その原因が「活断層」やプレートの境界である「海溝やトラフ」に起因し、地下の岩盤に溜まって一杯になった歪みエネルギーが一気に解放される現象で、その時の衝撃波が揺れ(地震動)となって地表に伝わったものである。それ故、プレート境界型の巨大地震には周期性が指摘されている。
ピンと来なければ、日本庭園の「鹿(しし)おどし」のようだと思えばよい。
揺れの大きさは、現在では震度0(無感地震)を最小に、数量的に区切り、「震度1から震度7」までを、9段階の震度階級で表すようになっている。日本では不思議な事に、「地震と火山」は、地質調査所ではなく、なぜか気象庁が管轄する。その震度を決めるのは、
- 震源(震央)からの距離
- 地震の規模
- 地盤の性質(地質)の違い
である。
揺れを引き起こす地震波は、震源から球面波として広がり伝播するので、一般に震源に近いほど揺れが大きい。二番目の地震の規模は、放出するエネルギーの大きさを簡単な数値に置き換えて示したものと思えばよい。調度打ち上げ花火の「尺玉の違い」によって、開いた花傘の大きさが異なる様を思い浮かべればよい。尺玉の違いを「マグニチュード」などと難しく呼んでいるだけの事である。三番目は、地震波の伝わった場所の地下が硬い岩盤か砂地のような軟弱地盤かと言う、地質や地質構造の違いによっても異なると言うことである。家屋やビルの建っている場所が、震源から等距離であっても、地域によって少しずつ震度が異なるのはこの為である。
昨今では、新居を構えるのに都市周辺が開発され、広々とした造成地がつくられている。山の斜面や丘陵地がそっくり「ニュータウン」と化して、町街地となっている場所すらある。ところで、巨大地震に対して、宅地の地盤は大丈夫なのだろうか。盛土なのか掘土なのか、岩盤のカット地なのか、低湿地帯の埋め立て地なのかで、耐震度がかなり違ってくるはずである。
既成の家屋やビル、庁舎や寺院、学校や病院などの公共施設、道路や橋、古いトンネル等、あらゆる建造物が巨大地震の耐震化の対象となって見直しが進み、徐々に化粧直しが施されている。そんな中で、五重塔やお城の石垣は、長い年月地震に見舞われても殆ど無傷に近いと言える。地震国日本において何百年もの昔に成しえた、古人の英知の結集した見事な耐震建造物である。
今、どこもかしこも「耐震化」がブームのように叫ばれ、強度補強等の工事がなされているが、本当に限られた予算で大丈夫なのかと思う。耐震設計の基準値をクリアすれば「補強はOK」と言う事であろうが、居住地の直下で M=8.6(マグニチュードのかつての最大値。現在は、旧理論が見直され、これ以上のものが生じている)の浅発地震が発生し、震度7(最大震度)に見舞われても大丈夫でなければ何の意味も無い。震源地(震央)から少し離れた場所であれば、地震波の来る方向によって揺れの状況はかなり異なる。家屋の構造は方向によって均等ではない。地震波はどの方向から来るか判らない故、ぐるり360度の方向に対して耐震補強度が等価でなければならない。大揺れを引き起こす「S波」(横波)や複雑な合成波である「表面波」(L波)の振幅も周期も、発生する地震によってまちまちなはずである。わずかの補強(予算)で、本当に耐えられるのだろうか。
耐震補強工事は、多くの人命にかかわる事ゆえ、あらゆる要素を念頭に置き、様々なケースを想定して成されなければならず、その後の巨大地震に対して全く耐えられず、「このようなケースは想定外だった」とは言いえない改築なはずである。
職場でも、学校でも、地域でも地震防災の避難訓練を定期的に行なうようになってきた。望ましいことであるが、定例の行事化しすぎてはいないだろうか。巨大地震がひと度生活空間を襲えば、わずか10秒の間に生死が決まるとさえ言われる。死者の殆どは落下物等の荷重による圧死と、逃げ出せずに建物や室内の備品等に挟まれての重度の怪我(重傷)、落下物に頭部を撃たれての意識不明(気絶)、そして出血多量による失血死やショック死である。瞬間的な即死者はごくわずかだと言う。だとすると、二次災害(ガス爆発、火災、感電、窒息、有毒ガスの吸引等)での死亡や、瓦礫の中に閉じ込められ身動きができずに、救助のないままに死を迎えたような、二義的な不運の重なり等での死亡者数が圧倒的に多い。
さらに、海域の浅発地震であれば、発生した津波によって、桁違い死傷者が出る。
地震動は本震後に余震が来るが、その間に何を成すべきかである。地震は時間帯とも生活状況とも無関係に発生し、人々の生活の場を襲う。本震がグラグラっと来たら、まず自身の置かれた生活環境でとっさの行動をとり、「落下物に注意しながらしっかりしたものに身を隠し、その後脱出し動ける体勢にする」ことである。続いてガス、電源、火の元や火の手の始末、すぐ持ち出せる身の回り品、金品等の携行、そして余震や二次災害の発生までにより安全な場所への避難移動である。以上は個人に基準を置いた「自分の命は自分で護る」という基本事項である。
ただし、避難訓練は、多くの場合、幾人かが周囲の人々と生活を共にしている時間帯に行なわれる集団訓練である。生活状況のケース別や時間帯別での想定はまず成されていないし、日本国民の若い世代は自分自身の身を危険にさらすような「サバイバル」(生存術)は体得していない。これは戦後の日本の復興がうまく成されすぎたことに尽きるが、世界的に最高レベルにある治安の良い法事国家、経済的に恵まれた先進発展国にて幼少期から何不自由なく育て上げられたことと、そして、民衆がそういった社会環境を構築し、安全で安定した生活状況に慣れきってしまっていることゆえ、一般的な教育に基づく組織的訓練を重ねただけでは、巨大地震発生時の死傷者数の激減には繋がらないかも知れない。大切な事は、ふいに発生した地震の「本番」で生かせるような、「ひとり一人が生き延びる為の避難訓練」と負傷者のすみやかな救助訓練を、同時にセットで行なうことである。地震避難の訓練は、誰もが簡単にできる消火訓練等とは異質な訓練であるゆえ、指導者や上に立つ者は状況判断や初期対応、危機管理等を誤っては取り返しがつかなくなることも熟慮し、この種の訓練も合わせて行なうべきである。
大衆常識の価値観に支配されての生活リズムの中で、まず、非常時に自分の身の安全を確保するためのとっさの行動がとれるかどうか。また、余震発生までに出来得る限りの人命救助ができるかどうか・・・・、である。地震防災の訓練はこのことを念頭に置いて、助け合いの精神で成されなければならない。「条件反射行動」を引き起こすための条件学習が、一度きりでは不可能なことは明白であろう。
野生動物の場合、孤独相を成すもの、群生相を成すものとさまざまである。孤独相のものは、常にサバイバルを強いられている。群生相を成すものでも、一匹一匹が野生の中で生きのびる為の能力を持ち、群れをはぐれても生存してゆく。群生相(群れ)という生き方を選んだ野生動物種は、常に「種族の保護」のための秩序と行動をとるが、「一匹一匹の個体の身の安全を群れが保障する」などと言う生活規範はないのである。ここでは、人間社会と違って弱いものは群れから切り捨てられるのである。熱帯雨林等で生活をする未開民族は、野生生物の群生相に近い生活形態を示し、彼らひとり一人について見ると、誰もが一定のサバイバル能力を持ち、強くてたくましい。
避難訓練の参考として考えるだけではなく、日本国民が国際社会の中で生き抜く為の「生き方」を模索する時、この未開社会には「生存のために必要な学ぶべき基本事項」が、少なからずあるように思われる。そして、地震避難訓練は、その場所での「最大規模の地震による最悪の被災を想定」して行なうべきである。
(2009.8.28 加筆、再録)
クリーンエネルギーのお話し
エネルギーって一体何だろう。物理学では「物体に作用し、仕事をさせる能力」と説明しているが、ピンと来ない。多分、「あらゆる物の状態を変化させる原動力」みたいなものであろう。そしてエネルギーは高所から低所に流れることにより、その形をかえることが出来、決して無くならない。滝の下にハネ車を置けば「水車」のように回転し、ハネ車の「運動エネルギー」となる。高所の水は、落下することによってハネ車を動かすので、「位置エネルギー」を持っていることになる。さらに、回転軸にクランクを取り付ければ、米を搗く「力」(力学的エネルギー)となる。また、回転軸に発電機を取り付ければ「電気エネルギー」となり、これを電線で導くことによって、光にもなれば、熱にもなる。この間に、有害物質は全く発生せず、環境汚染もないから、高所の水が持つエネルギーは、真正の「クリーンエネルギー」な訳である。
クリーンエネルギーは、自然界にはあふれており、「太陽光」をはじめ、「風力」「波力」「地熱」などがそうで、いくらでもある。ただし、経済的な観点からみると、現在の科学技術では、わずかな「エネルギー」を取り出すのにお金がかかりすぎるなど、生産効率が悪い。一番効率よく生活の必需品である電気エネルギーを取り出せるのは、核分裂や核融合など放射性物質の核化学反応を利用した「原子力エネルギー」なのである。これに次ぐのが、石油であり、石炭である。石油や石炭は、地下に埋蔵された物質(地下資源)であり、それぞれが燃焼という化学変化をすることによって、熱にもなり、電気にも変わるので、「化学エネルギー」を持っていることになる。
ただし、このような物質の持つ「原子力エネルギー」や「化学エネルギー」は、変化の過程で、放射線や被ばく物質、二酸化炭素などを発生させるので、「非クリーンエネルギー」である。
もともと石油・石炭や天然ガス等の化石燃料は、大昔の生物(石油は海生生物、石炭は陸生植物)の遺体の集積が地中で長い地質時代を経て炭質物に変化した物質等であり、その時代の古生物の活動のエネルギー源であった「太陽エネルギー」を、地下に封じ込めた、いわば「太陽エネルギーの缶詰」だった訳である。これをエネルギー効率のよい便利な物質として、無造作に取り出した時点で、地球の温暖化や大気汚染は始まり、200数十年を経てようやく人類社会が気づいた訳である。もう遅いのかも知れない。
しかし、科学技術の進展は、ここ半世紀の間に、文明のピークを思わせる程目覚しい勢いで電脳化を遂げ、宇宙開発やインターネット、ノート・パソコン、携帯電話など、先進国の社会進化はとどまる処を知らない。地球上の熱帯雨林やサバンナ等にポツリポツリと残存する、原住民達のクリーンな未開文明との段差が著しい。今、先進国が求めるのは、熱にも光(明かり)にも簡単に転換できるクリーンな電気エネルギーであるが、そう都合よく毎日「雷サマ」は発生してくれない。発生しても、あのすざまじい放電エネルギーを蓄電できる設備は殆どなく、ただ眺めているだけ。我々一人ひとりに出来る事は、せいぜい「太陽光発電」を増やすぐらいであり、これに頼るしか方策はないのが現状である。我が日本は、島国の山岳国であり、水はいくらでもある。高所の水の持つ位置エネルギーを有効に使うべく、弧状列島の骨格を成す梁稜山脈の山地の地下に、複数の「貯水用巨大パイプライン」を何故造らないのだろうかと思う。
(2009.8.28 記す)